競争と協力
チャールズ・ダーウィンの『種の起源』には、「すべての生物は自然界での資源獲得競争で淘汰され、その結果として生き残ったものが進化したものである」と書かれている。この自然選択説の「競争全肯定」のスタンスが競争主義社会のコアとなっている。
そのために、すべての会社は公正な競争で淘汰され、その結果として生き残ったものが進化したものである、とされている。その競争原理によって経済発展につながるのだ、と経済学者たちは信じている。その競争の結果、どれだけ自然を破壊しようが、多くの生命を奪ってしまうことになろうが、居住惑星の気候が変動してしまおうが、そんなことは経済学にはどこ吹く風。「経世済民」の「世」に自然界は含まれず、「民」に自然界の生き物は含まれない。
競争を中心とする社会
競争社会は、健康に対する公害も生む。働く人々も生き物ではなく「人材」として扱われる。材とは、切り取った木の一部のことである。だからといって「財」を使えばいいという問題ではない。財とは、お金として使った貝殻のことである。いずれにせよ、生命を宿した生き物扱いはしていない。その証拠に、自由競争システムで生き残るために、日夜、自由を捧げて働く人々の健康は最低限度のライン、ギリギリである。文化については判定が難しいところだが、好きなときにテレビを見る自由を文化的と呼ぶのなら、それは余裕でクリアしているかもしれない。
働く人々は、F-1 のレースに出場するレーシングカーさながらのギリギリ具合で、競争に参加している。少しの気の緩みやチューニング不足で大クラッシュにつながる、この恐怖のレースに毎日参加するにはタフでなければならない。疲労とストレスを感じ、身体が壊れ、心が壊れても、会社が競争に勝って生き残ることが優先される社会こそが私たち人類の大半が営む社会である。会社を国家と言い換えても構図は変わらない。
競争主義で運営される教育システム
学校は社会を映す鏡である。現在の教育システムは社会の要請を反映している。競争主義社会の教育システムは当然ながら、競争主義である。そこでは、徹頭徹尾、競争的に物事が進む。
すべてのこどもの評価は競争で行われる。最後まで勝ち残ったものが優秀、それ以外のものはまずまずの評価、早々に負けたものは「落ちこぼれ」の評価を受ける。競争に参加しなくても、「落ちこぼれ」である。誰も競争に参加しなくなると困るので、競争に参加しない「けしからんやつ」には成績表でオール1を付けて痛い目に遭わせるのが競争主義である。
何の競争でも早々に負けてしまうこどもや、生まれつきハンディキャップを抱えたこどもも、本当はオール1を付けて「落ちこぼれ」にしてやりたいけど、そんなことをしたら評価者の人格を疑われるから「特別支援」としておく。特別支援と は、「(競争社会では弱すぎて生きていけないので)特別に支援が必要」という意味の評価である。「落ちこぼれ」扱いしていないようで、ちゃんと競争主義に従って評価している。
勝者と敗者を結果で選り分けるテスト、競争の結果を定期的に伝える成績表、競争に負けないためにする宿題、学習進度を揃えて競争を可能にする一斉授業、生まれた年毎に束ねて競争を可能にする学年制、全国学力一斉テスト、OECDの国際学習到達度調査(PISA)など、現行教育システムを構成するほぼすべてのプログラムは、「競争」を成立させるために用意されたものである。OECD(経済協力開発機構)は「Co-operation 協力」という言葉が名前に入っていながら、経済成長を目的に「競争」を助長させるようなことをしているのである。
カウンターカルチャーとしての協力主義
厳しい競争主義を勝ち抜けない人々の居場所は誰が用意するのだろうか? NPOや社会福祉団体だろうか? 宗教や政治で解決すべき問題なのだろうか? 「非営利目的」の教育システムがこんなにも競争主義ならば、社会は一部の勝者以外には必然的に生きづらいものになる。誰もが心のどこかで感じている「生きづらさ」は、常に勝者を目指すことを義務付けられる「競争主義」にある。誰もが上手く言語化できず手当たり次第に「社会の〇〇問題」に置き換えて しまうジレンマや不条理、疲労感やストレスの根本原因は「競争主義」にある。では、どうしたら「競争主義」をやめられるのか。
競争主義が社会の本質ならば、反競争主義を掲げる勢力は反社会勢力ということになるかもしれないが、我々ポリマスリサーチは、反競争主義として「協力主義」を掲げたいと思う。そして、これこそが自然界が採用している宇宙的社会システムであると確信している。それは素粒子レベルから銀河レベルまで適用されている。
クォークは他のクォークと競争しない。光子は電子と競争しない。電子は陽子と競争しないし、中性子とも競争しない。葉緑体はミトコンドリアと競争しない。細胞は他の細胞と競争しない。内臓は他の内臓と競争しない。右手は左手、右足は左足、右脳は左脳は競争しないどころかむしろ仲良し! 地球は太陽と競争しないし、月とも火星とも木星とも競争しない。太陽系は他の恒星系と競争しない。天の川銀河とアンドロメダ銀河は競争しない。
微小スケールのものから極大スケールのものまで、すべての存在がただ協力して宇宙を動かしている。人間スケールで観測できる「生物」だけが競争しているのだろうか? 植物や動物や菌類は資源獲得を巡ってお互いに競争しているのだろうか? とてもそうは思えない。何のために資源を獲得し、何のために生命を有しているか、何のために生命が宇宙に存在するのかを宇宙的に考えていけば、そのような観点はあり得ないことがわかる。
すべての競争は戦争に通ず
「進化は競争による自然淘汰で起きる」と誰かが最初に言わなければ、その思い込みを「正しい!素晴らしい!」と誰かが言わなければ、その思い込みをメンデルの発見と組み合わせて「これがずばり生物進化の仕組みだ」と誰かが言わなければ、こんな競争全肯定社会にはならなかった、かもしれない。
競争は戦争へ発展する。この世は資源獲得競争だと思い込めば、資源獲得のために専門分化する。専門分化すれば、獲得したニッチ(生態的地位)は縄張り争いに発展する。縄張り争いは必ず戦争に発展する。人間の場合、縄張りの境界線が国境である。
協力こそ平和への道
協力は戦争へ発展しない。この世は資源分配協力だと思い込めば、資源獲得のために仕事を分担する。仕事を分担すれば、ある種が獲得したニッチは必要に応じて別の種のために動的に明け渡されるから、縄張り争いは起きない。仕事を分担する先が無数にあって、資源分配効率が十分高ければ、エントロピー増大則によって資源に変換できるエネルギーは常に供給され続けるから、使える資源は増え続ける。それに伴い、新たな仕事を分担するために種も増える。種が増えれば生態系のエネルギー変換効率はさらに高まる。
この繰り返しで、使えるエネルギーは重力的に球体表面上に貯まっていき、宇宙の混沌に秩序をもたらす「平和な生態系」は自然に広がりを求められ、宇宙へ飛び出していくことになる。そこに戦争の気配はまったくない。使えるエネルギーが枯渇することなく十分にあり、誰もが衣食住に事足りる世界では、生命を奪うための技術と予算はすべて生命を躍動させ生活を豊かにする「生活器」を作るために使われる。宇宙から国境は見えない。
すべての協力は宇宙に通ず
我々ポリマスリサーチが私淑するマリア・モンテッソーリやバックミンスター・フラーは「協力主義」を掲げ、人生を通してその重要性を世の中に広めた。マリア・モンテッソーリは発達理論を「協力主義」に基づく独自の教育法に昇華させた。バックミンスター・フラーは幾何学理論を「協力主義」に基づく宇宙構造学に昇華させた。すべてのものは相互に関係していて、宇宙に対してそれぞれの役割を果たしている。こどもの社会も、目に見えない宇宙の仕組みも、協力で成立するのである。その重要性は強調しても、しすぎることはない。
宇宙では、ある文明社会が「競争主義」という宇宙的に間違った考えを持っている限り、宇宙を自由に移動できるレベルには達しないようになっている。文明社会が「協力主義」に全面的に移行したときにだけ、深宇宙へのアクセス権を手に入れることができる。タイムリミットとして居住惑星の生存環境へのフィードバック機構も用意されている。このフィードバック機構により、反宇宙的な「競争主義」を採用する文明は自らの行動の副作用で遅かれ早かれ滅ぶことになる。
これは、①そのワールドの仕組みに気が付かなければ次のステージに進めないようになっているということ、②同じプレイヤーが無限にプレイすることはできないこと、③プレイヤー交代もあり得ることを意味する。この宇宙の安全弁とも言える完璧なゲームデザインは名作ゲームをプレイしたときの感覚と似ている。「ここでちゃんとプレイヤーに洞窟に入って剣を見つけてもらわないと、この後のゲーム全体を楽しめへんからな〜」と同質の思いやりを感じる。
協力の最大化こそが超自然
我々ポリマスリサーチは、ヒトが専門分化を避け、生得的な万能性を保つことができるようにすることが「生命現象としてのヒト」に進化をもたらすと考えている。あらゆる生物の生育環境としての地球に対してヒトが超自然的な仕事を果たすことで、私たち人類は次の種へ進化し、恒星系文明へ進むことができる。その先には銀河文明、果ては宇宙文明の可能性が拓ける。
宇宙への進出は本質的に「生命をいかに守るか」という問題であり、生命を躍動させるテクノロジーなしではそこまで辿り着くことは絶対にあり得ない。機械がヒトに取って代わる可能性もあり得ない。ヒトゲノム全体のサイズは800MB程度1であり、機械におけるDNAやRNA、染色体やウィルスに相当するアーキテクチャを私たち人類が発明する前に、人類の歴史は終わりを迎えるだろう。
科学による近視眼的な試行錯誤を続けた結果、最終的に、微生物から大小様々なすべての生物をゼロから自分たちで生み出さなければいけないと気付くことになる。それは、これまでの地球生物の系統発生をすべて繰り返すことが必要だと気付くことであり、地球46億年の歴史を繰り返すこと、宇宙138億年の歴史を繰り返すことが必要だと気付くことを意味する。
その歴史を短縮するために、コンピュータのシミュレーション世界の中に情報体として入る技術を手に入れたとして、そこで生まれた多種多様な生命を高次元の世界、つまり私たちが住む世界に反映させる物理法則がない。カオスによって、この奇跡的な宇宙をシミュレーションで再現できる保証もない。人工物によって宇宙に取って代わろうとする科学の方向性で待っている未来は「無理」の発見と人類の終焉である。
いまこそ地球と協力を
我々は本質的に宇宙人である。大きな世界を旅して故郷のありがたみがわかるように、宇宙から見て私たち全員の共通の故郷である地球のために協力する文化を醸成したい。「協力主義」への移行のためにも、競争でなく、純粋な協力関係を築いていきたいと思う。そのために、 ポリマスリサーチはNPOで活動する。どんな個人や団体とも協力するために。
「地球と協力」プロジェクトでは、地球復元活動を仕事にしたい個人を常に募集する。スタッフが一次産業の方法改善や融合的継承など具体的な地球復元活動をして生活していくために、スポンサーも合わせて常に募集する。具体的に問題解決に動く人々とそれを支える人々の協力関係により、このプロジェクトは地球復元の原動力となる。
協力者が増えれば協力関係は指数関数的に増え、超自然的に地球復元を達成するベクトルは強化される。その恩恵は地球に住む全生命が受け取ることになる。そこには現在の私たち自身も、まだ生まれていない未来の私たちの子孫も含まれる。
Footnotes
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推定値。計算方法は様々あるが、1GB程度に収まる。 ↩